2005年 2月の業界裏話

お菓子ファンの皆さん、こん**わ。お元気ですか?。

新年が始まったと思っていたら、あれよあれよと言う間に早2ヶ月が過ぎ、もう既に「桃の節句」の時期となってしまいました。
今年は、我々が活動の本拠とする愛知県名古屋市では、2月17日に中部新国際空港「セントレア」の開港に続き、愈々3月25日には21世紀初の国際博覧会となる愛知万博「愛・地球博」の開幕と、色々な行事が目白押しで、とうとう2月の本HP更新作業もできないままとなってしまいました。す・すまん・・・。

こう言ったプロジェクトが矢継ぎ早にあると、それに関連した色々な行事があるので、どうしても本業の方が多忙となって中々時間を作る事が難しくなっている状況です。ま、これは言い訳に過ぎないのですが・・・。

さて、今回の業界裏話は、この様な歴史的にも重要な事柄をこなす内に「文字や文献になっていない史実を記録する事は、重要なんだなぁ〜」なんて感じましたので、当社が記録した業界の歴史的な部分をWeb上に記録しておこうと考え、2ヶ月連続で掲載する事とします。

このコーナー的には、文字ばっかりで少々つまらないものになってしまうかもしれませんが、「業界の史実が何処かに埋もれてしまうよりは良いかなぁ?」なんて思ってますのでお許しを。

そそ、今回取り上げるのは「中部地区チューインガムのルーツを語る懇話会」(昭和61年9月・日本チューインガム協会中部地区主催)のものを、当時の記録のまま掲載します。ですから、出席者の中には既に他界されて見える方もお見えになるという点をご理解下さい。

皆さんの中には「何でチューインガムの歴史なのに中部地区が出て来るのよぉ〜」なんてお思いの方も有るかと思いますが、その昔は「バラキャラメル」や「飴(キャンディ)」など比較的設備投資が少ない製造業を中心に、当地区では色々なジャンルの菓子製造メーカーが多数あって、全国でも有数の菓子生産地だったんです。で、その中に一角に「チューインガムメーカー」も多数あったと言う事らしいのです。

日本にチューインガムが初めて輸入されたのは大正5年で、昭和3年ごろマサキガム、新高製菓などが国産ガムの製造販売をしました。しかし、当時の食習慣などに合わず、あまり売れませんでした。
第2次大戦中、アメリカ軍の携帯食糧にチューインガムがありました。昭和20年の終戦と同時にアメリカ軍のチューインガムは、新しいファッションとして急速に日本人の間に浸透し、生活の洋風化とともに愛好者を急増させました。

ま、戦後は食糧難で、特に甘いものに飢えていた時代と言う事もあり、製品を作れば作っただけ売れて行ったと言う話を良く業界の大先輩の皆さんから聞いていますので、メーカーで奉公していた従業員が適齢期になって結婚等すると、親方としてもそれ相応の給料を払わねばならなくなりますので、その対策として「暖簾分け制度」が確立され、分家として創業すると言った時代でもあったようです。

ま、そこら辺は本編でご紹介する事として、では早速、スタート…。

  ◆中部地区チューインガムのルーツ

日本チューインガム協会(重光武雄会長=潟鴻bテ社長)では、昭和61年4月に開催した役員会で「我が国チューインガム工業史の編纂・記述を行って、後世にこれを伝える…」事を決議したが、その第1回準備会を、同協会中部支部(外山英勝支部長=滑O山商店)が中心となり、昭和61年9月19日午後4時から名古屋市西区・料亭「志の島」で開催した。

当日は、業界OBを中心に菓子・玩具卸問屋、原材料業者を始め支部会員等27名が出席し、主として「戦後のチューインガム業界」について出席者から貴重な発言があった。

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